



ニコラス・D・ウルフウッドが初めてその男を見たのは、雇われている食堂のテレヴィジョンの画面の中だった。
テーブルの後片付けをしていたときだ。『あーッ! いました! やはりあの赤いコートは──』とリポーターが叫ぶ声が響き、なんとなく振り向いたそこにはもうもうと粉塵が立ち込めている様子が映し出されていて、何やら騒ぎがあったらしかった。赤いコート、という言葉がなぜか引っかかり、雑然とした映像に目を走らせ探しているところで、
『ヴァッシュ・ザ・スタンピィィド‼︎』
カメラが一人の人物をクローズアップした。
しなやかな体をぴったりと覆い、腰から下にたなびく真紅のコート。逆立てた黒髪に、オレンジ色のサングラス──見たこともないほど美しい、碧い瞳。
襲いくる銃弾を踊るような動きで躱し、翻って瓦礫の山を駆ける姿をニコラスは中断した作業のことも忘れて追い続けた。
『おおっと、またもや逃げるのでしょうか〜‼︎ しかし相手はガミエラファミリーとブラッドフォード兄弟の連合チーム! これにはヴァッシュ・ザ・スタンピードもお手上げか──』
NLBCの生中継であった。食い入るように見つめる姿を店主やその娘のマリーに笑われる始末だ。
「なんだいニコ、ヴァッシュのファンだったのか?」
「あ? ……おっちゃんもコイツ知っとるん?」
画面の中も気になるが店主の話も気になる。この男を目にしてから、心臓がバクバクとうるさく鳴るのだ。今すぐにでも駆けつけなければならないような、焦った気持ちが胸を騒ぎ立てる。
「知らん奴はいないだろうよ」
「パパ、ニコは記憶がないのよ。わからなくて当然だわ」
画面の中ではいつの間にかヴァッシュが逃げたとリポーターが喚き散らしていた。ほっと胸を撫で下ろす。
「ヴァッシュ・ザ・スタンピード──人間台風って呼ばれる超S級の指名手配犯さ。悪そうな顔はしてないがねぇ。あれでどうして、大事件の首謀者って話だよ」
「人間……台風……」
「やだ、あの街壊滅寸前じゃない。この街に来ないといいけど……」
「行くとこ行くとこ、ああやってダメにしちまうのさ。本人は逃げ足が速くて捕まった試しがねぇ」
惚けているニコラスが片付けていた食器類をマリーが手早く下げ、テレヴィジョンの画面をさっさと切り替える。
「あ、すまん」
「いいわ。あとで買い物つきあってね」
「オレはわりと好きなんだがなぁ、あいつ一人に悪い奴らが吠え面かいてんの見るの、結構気持ちいいからよ」
「バカ言ってないで、夜の分の仕込みしたら?」
一服させろと主張する父親と娘が攻防戦を続ける中、ニコラスの頭はさきほど見た男のことでいっぱいだった。
ヴァッシュ。
ヴァッシュ・ザ・スタンピード、人間台風。
その名を心のうちで繰り返すと、胸を掻きむしりたくなるような焦燥感が一気に湧いてくる。あの風にはためいていたコートの残像が視界をちらつくのだ。
どこかで会った?
大事なものだった?
──思い出せない。
それからしばらく、ニコラスはヴァッシュについて調べた。店を訪れる客にその話題を投げ掛ければ、あとは勝手に喋ってくれるから情報はすぐに集まる。
店主が言ったように悪い噂も、いい話もどちらもあった。しかし何一つ、自分に心当たりのある話はない。
そのうち「ニコラス、ご執心のヴァッシュがあの街に出たってよ」「ファンなら生ヴァッシュを拝みてぇよな〜」と悪ノリする客も現れた。そういう輩は即座にマリーが追い返してしまうこともあったが、言われてみればそんなに気になるなら実際に会いに行けばよいのだとニコラスも思うようになった。
NLBCの放送を細かくチェックし始めたニコラスに、「まるで恋でもしてんのかね」と揶揄した店主が娘から盛大に睨まれるなんてことも。
「恋……?」
よくわからなかった。記憶を失くす前の自分ならわかったのだろうか。この感情が一体何であるのか。
ヴァッシュのことが気になりつつも、ニコラスの毎日はそれまでと同じく平穏に過ぎていった。記憶はなくとも、いい人たちに恵まれ何の不自由もない。店で働くことも性に合っていて、ニコラスはここでの生活を気に入っていた。
しかし、そんな日々は急に終わりを告げる。
隣町にヴァッシュ・ザ・スタンピードが現れたというニュースが耳に入ってきた、その瞬間に。
*
「あ〜〜〜〜!! もう、しつっこいねェきみたち!!」
流れるような銃弾のシャワーを避けながら、ヴァッシュは大通りを全速力で駆けた。この街には市場に立ち寄っただけだったのに、間の悪いことに数日前にやり合った相手の手下と鉢合わせたのだ。
街の人々を巻き込まないようわざと大騒ぎをしながら逃げる。屋内にサッと避難してくれる危機意識の強い街で助かったが、その裏で相手は仲間を集めてヴァッシュを追い込むための包囲網を敷いていたようである。
「どこまでも追いかけてやるぜぇ〜〜、てめェのそのおキレイな首もらうまでなァ」
「ヒッ」
大振りのナイフを携えた大男はガミエラファミリーの中でも危険人物で、猟奇的な狩りをすることで有名だ。最近はヴァッシュを偏執して狙ってくる。この男に頭からつま先まで舐めるように眺められると背中に寒気を感じて、ヴァッシュはどうにも苦手であった。加えて、後方からブラッドフォード兄弟が射程距離の長いライフル銃で巧妙に逃走経路を狭めてくる。
しまった──と思ったときにはもう遅く、行き止まりの路地裏に誘導されたようだ。この辺りの建物は低いものがなく、袋小路に追い込まれたら脱出することは極めて厳しい。
巨体の影がにたりと笑いながら近づいてきた。
「安心しろよ、何もこんなトコで切り刻んだりしねぇからよ……。二人っきりで楽しもうぜ」
「エ、遠慮しま〜〜す……っ」
ヴァッシュは振り向きざま愛銃を構えたが、その動きを読んでいたかのように手もとを弾かれて取り落としてしまう。巨体の肩越しには長髪の男が立ち、放ったばかりの銃口をまだヴァッシュに向けていた。休む暇もなく、ビュッと空気を切り裂いてナイフの鋭い切先が飛んでくる。間一髪避けたものの、その隙をついて首をがっしり締め上げられた。
「テメェに銃持たれちゃあ敵わねぇこたァよくわかってんだ。そうそう簡単に撃たせてもらえると思うなよ」
「く……、っ、は、」
巨体は片手でヴァッシュの首を掴んで持ち上げた。足が浮き、ぶら下がった状態で余計に首が絞まる。
どうにか手を外そうと試みるが、ヴァッシュの三倍ほどはあろうかと思うほどの大きさの手はびくともしなかった。
──あ、ダメだ。意識が、
必死で手足をバタつかせて昏倒しないように足掻くが、うっすら意識が消えかける。まずい。目が覚めたらこの大男と二人っきりでいたぶられるなんてさすがに勘弁だ。やるならひと思いにやってくれた方がまだマシというもの。
顔を近づけて恍惚に浸る男に震えていると、俄かに表通りが騒がしくなった。乱闘でも始まったのか?
巨体が「なんだァ?」と振り向いたときには銃撃担当の長髪男はいなくなっていて、気が逸れたのかヴァッシュを掴む手が少しだけ緩む。危なかった。思いっきり息を吸って脳に酸素を送り込む。
「何なんだテメェは! 仲間か⁉︎」と叫ぶ声がしたと思ったら、立て続けにドカッ、バキッと鈍い音がしてあっという間に静かになった。異常事態と感じたのか、巨体はヴァッシュを壁に投げつけるように放ると、地鳴りのように足音を響かせて表通りへと向かっていく。
「おい、どうし──」
パン! と発砲音が鳴り響いた。
壁に体を強打して地面にくの字になっていたヴァッシュからは、片膝をついた巨漢が見える。どうやら足を撃ち抜かれたらしい。
「な……、なんだ、テメェ……」
「アンタらには別に恨みも何もないんやけどな、その男に用事があんねん」
──え?
ヴァッシュは慌てて体を起こした。いろんなところが痛んだがそんな場合ではない。
この声。
この訛りのある喋り方。
まさか──、
「堪忍してや。アンタのお仲間みんなあっちで転がっとるけど」
「なんだと⁉︎」
「すぐ行ってやった方がええんとちゃうかなぁ、──そうでもせんと、アンタもここに転がることになんで」
銃口を巨体の頭に突きつけ、ガチッと撃鉄を起こす。
その姿、その顔──間違うわけもなく、共に闘った記憶そのものの男。
「クソ……ッ!」
吐き捨てるように悪態をつき、巨漢はぶるぶると震えると唐突に逃げ出した。遠退いていく足音を平然と見送った男が持っていた銃を投げ捨てる。
地面に座り込んでいるヴァッシュを見つけ──視線を逸らさずにズカズカと近づいてくる。
「え、あの、なに…っ」
後退ったところで行き止まりだ。逃げ場はない。
どうして、どうしてこんなところにコイツが?
頭の中をそればかりがぐるぐる回る。
「ヴァッシュ・ザ・スタンピード」
名を呼ばれて、ピタリと固まった。
それは確かに自分の名だ。
自分の名前だけれど。
片膝を折り、同じ目線まで屈んだ男が──ウルフウッドが手を差し出して人懐こく笑う。そして暫くぶりに会った男は、まるで理解し難い言葉を口にした。
「ニコラス・D・ウルフウッドや。アンタに惚れた! ワイと結婚してください!」
は…………
ハ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜????????
驚き過ぎて声も出ないヴァッシュに構わず、その手を取って立ち上がらせた男はコートの汚れをはたき落とすと顔を近づけてしげしげと眺めてきた。
「近くで見るとほんま別嬪さんやなぁ。その目の下のホクロ、色っぽくてたまらんわ」
「え……おまえ、だれ……」
「せやから、ニコラスやって。名乗ったやろ」
そうじゃない。
だって、ヴァッシュの知るウルフウッドはそんなことは言わない。言われたことがない。
惚れた? 何の冗談だ?
「よろしくな、ヴァッシュ。返事はゆっくりでええで」
そう言うと、ヴァッシュの手に軽くキスをする。
ええ…………????
全く状況についていけず、首を絞められていたときよりも意識が薄れてくる。何も考えたくないと頭が拒否していた。
だって。
だって、おまえ。
この数年の間、ようやく腹の底に沈めた感情を掘りこおされそうでヴァッシュはそれを留めるのに精一杯だった。
とてつもなく混乱している。
ウルフウッドに手を引かれるままついていって、彼の住む街にまで来てしまうくらいに。
「わい、子供の頃は孤児院で暮らしとったんやけどな。十歳過ぎてくらいからのこと何も覚えてへんねん」
目の前に生クリームを渦状に高く絞った大きなパフェが運ばれてくる。この店一番の人気メニューというのも頷けるその華やかさに一瞬気を取られ、ヴァッシュは適当に相槌を打った。
「なんやえらい事故に遭うたらしいんやけど、気がついたら病院におってごっつい器具つけられとったわ。身体は全然平気やったけどな、頭の方がアカンくて。名前しか言えへんかった」
長い柄のついたスプーンをほいと渡される。ヴァッシュが注文したわけではないが、食っていいということだろう。遠慮なくクリームの中にスプーンの先を突っ込み、小さく刻まれたフルーツやゼリーを掬い上げた。ひとくち食べると酸味と甘さが絶妙で、すいすい食べられてしまう。
「そんでリハビリしとったら親切に仕事紹介してくれるて人が来て、この街に連れてきてもろてん。自分のことは覚えとらん割に生活に必要なことはだいたいできてな。体が覚えてんねん」
三層に分かれているカップの中は、カリカリのフレークと滑らかなムースで口当たりが変化して面白い。すっかり夢中になってもう半分ほど食べてしまった。そんなヴァッシュを頬杖ついて眺めながら、ウルフウッドはコーヒーを啜って話し続ける。
「中継でアンタの姿初めて見たときから、ずっと気になっとってな。ちょうど近くに現れたて聞いていてもたってもおられんかった。なんでこんなに気になるんかわからんやったけど──実際一目見てすぐわかったわ。これが恋っちゅうもんなんやて」
「んぐ……ッ、げほっ、ごほっ、」
いっぱい頬張っていたせいで喉に詰まらせる羽目になった。「あ〜、大丈夫か? ゆっくり食えや」と背中を叩き、水の入ったグラスを差し出してくれる。
いや、おまえのせいだよバカやろう。
受け取った水をごくりと飲み干し、喉のつっかえを押し流す。目の前の男は始終ニコニコしていて、何か言ってやろうかと思ったがその邪気のなさに気が咎めた。
本当に誰だコイツ。少なくとも自分がかつて一緒に旅をした男ではない。
「よおわからんのやけど、アンタのこと捕まえといたらなアカンて思うてな……。不思議やなぁ、前に会うたことある?」
「…………きみ、さっきの立ち回りは一体どこで?」
質問には答えず、ひとつ気になったことを問いかける。
あのあと二人で路地を出て、表通りに三人の男たちが倒れているのを見た。油断したところを突いたのかもしれないが、丸腰でもそんな芸当ができるとは。そして冷たい表情で大男に銃口を突きつけたあの様は、まさにあのテロ牧師そのものでヒヤリとした。あんなバカを言い出すまでは完全に記憶が戻ったのだと思っていたくらいだ。
「いやぁ、ステゴロなんぞしたことなかったんやけど体が自然と動くモンでな。銃も触ったらすんなり撃てるやん。わい、ほんま何やっとったんやろな? 悪さしてへんか心配なったわ」
──悪いことなんか、しないよおまえは。
ふと口をついて出そうになって、慌てて口の中にクリームの塊を押し込んだ。濃厚な甘さが胸を焼く。
「でも間に合うてよかった。わいの勘は正しかったちうことやな」
「……助かったよ。ありがとう」
実際、ウルフウッドには助けられてばかりだ。自分は彼のために、何もしてやれなかったというのに。
「かっこよかったやろ。結婚して」
にこ──っ、と子供っぽい全開の笑顔を近づけてくる。
「それは話が別」
「手厳し〜」
ぴしゃりと言ってやっても、それすら嬉しそうに笑うから心のどこかがしくりと疼いた。
待て待て、動揺するな。
ここで失敗しては今までの苦労が水の泡だ。
「あのねぇ、何かの勘違いじゃないの。きみ記憶喪失なんだろ。恋だの惚れただの、わかるわけ?」
そうだ。その可能性は大いにある。
ヴァッシュの姿を見て記憶が戻りつつあるのかもしれない。その綻びを特別な感情だと認識しているだけで。
「そりゃ、ちゃうな」
ウルフウッドはきっぱりと言い放った。こういうところはあの牧師を彷彿とさせて、つい暗褐色の睛を見つめ返してしまう。
「あの地面に倒れとったアンタ見て、ホンマは即むしゃぶりつきそうになってん。ありったけの理性で思いとどまってんで」
「ぶッ」
ちょうど煽っていたグラスの水を吹き出しそうになった。
何言ってんだコイツ。
記憶がなくなっただけでなくどこかがイカれてしまったのだろうか。
「それでコレはもう惚れとんのやろなて腑に落ちたんや。勘違いのわけがあらへん」
「そ……ソウデスカ……」
それ以上突っ込んで聞くのはやめておこうと思った。無闇に踏み込むと何が出てくるかわからない。
「なぁ、急ぐ用事でもあるんか」
ふ、とまた。ヴァッシュを見る睛が幼くなる。
共に旅をしていたときには見られなかったそんな表情はヴァッシュの心に簡単に突き刺さって、彼の前から逃げようとする自分を咎めてくるのだ。
「ないならうちに来てや。……何もせんし、返事考えて」
「…………」
ダメだ。
ダメだぞヴァッシュ・ザ・スタンピード。
おまえはもう、この男の人生に関わらないと決めたんだ。
自分とそれに纏わる彼の凄惨な過去が、新たに始まった彼の人生に影を落とさないように。
穏やかに、幸せに暮らしていけるように。
「クリームついてんで」
睛をやわらかく細め、長い指をヴァッシュの頬に伸ばして口もとを拭う。指先についた白いクリームを舐め取り、「甘ァ」と顔を顰めた。
結局、彼を拒む言葉は何も言えなかった。
*
ヴァッシュは返答に要する期限を一週間と提示した。
「一週間経って、結婚に同意する意志が生まれなければ諦めてくれ」という、ヴァッシュにとっては百歩譲った交渉条件である。
パフェを平らげて逃げることもできたが、それだと追われる可能性の方が高い。ウルフウッドはそういう男だし、なぜか自分を探し出すのが上手いのだ。追われるよりは、自分のことなどさっぱり忘れて平穏に暮らしてほしい。
ウルフウッドはその条件を了承した。彼の家に泊まることは辞退したヴァッシュには不満そうだったが、襲い掛かりそうになったと言った奴が何を言っているのだと呆れてやったら「それもそうやな。確かに襲わん自信はないわ」とゾッとすることを口にした。とんでもない男である。
そして次の日の朝から、ウルフウッドはヴァッシュが取った宿に会いに来るようになった。焼き立てのパンを持って出勤前に届けてくれるのだ。
ありがたく受け取って、「またあとでな!」と消えていく背中を見送る。特にすることもないヴァッシュは街中を散歩したり、彼の店で食事を摂ったりとのんびり過ごした。結婚を申し込まれていること以外は、ウルフウッドがつつがなく暮らしている様子を見ることができてこれはこれでよい機会なのだった。
彼の雇い主は突然赤いコートの男が現れて面食らっていたが、ウルフウッドから話は聞いていたようで「恋の病ならしょうがねぇ」と渋い顔で頷いていた。彼の娘だというかわいらしい女性からはきつく睨まれたが──何だよ俺じゃなくたって近くにいるじゃないか、と逆に安心したヴァッシュである。早く気がつくといいのに。
ウルフウッドの就業時間が終わったら、近くの酒場に立ち寄ったりもした。他愛もない話ばかりで、彼と旅した日々を思い出させるひととき。今もあの頃も、大事なことは何ひとつ言えなくて全く変わりがない。けれど、それでよかった。
ただ別れ際、ウルフウッドは「結婚したくなったか?」と訊いてくる。「まだかな」と答えると「そうか」としおしお項垂れる姿がなんとも言えず、うっかり情をかけてやりたくなってしまうのは困ったものだった。早く一週間が過ぎればいいと願いながら眠りにつく。朝になるとまたやって来る彼を見て、無邪気な笑顔に胸が締めつけられるのがわかっていたから。
ヴァッシュはこの街に来てすぐ、リヴィオに連絡を取った。一命を取り留めたウルフウッドを陰から見守り、ウルフウッドのその後の生活もそれとなくサポートしていたのは彼である。二日後にやって来たリヴィオは、求婚されたことを話すとつぶらな瞳を輝かせて「おめでとうございます……!」と言った。気が早い。
「まだ返事してないし、結婚する気はないよ」と言うヴァッシュに「なんでですか」と真面目な顔で問い詰めてくる。
なんでじゃないだろう。自分と結婚なんかしたらウルフウッドの人生が滅茶苦茶になるだけだと言ったらやはり理解し難いというふうに首を傾げられた。そして。
「ヴァッシュさんは、どうなんすか」
と、直球でぶつけられた。リヴィオのくせに痛いところを突いてくる。
「結婚……なんて、別にしなくてもいいだろ。友人として会いに来ることはできる」
「ウルフウッドさんのことを心配する気持ちはわかりますけど、それは別にあの人がそう望むなら問題ないでしょう。寧ろ記憶がなくなってもあなたを求めたんだ。……ちゃんと本心で答えてあげてください」
「別に嘘じゃない。最良の選択だと思うだけだよ僕は」
リヴィオは少し困ったような顔をして、でもそれ以上突っ込んでこなかった。それからヴァッシュは、自分が口にした言葉をずっと舌の上で転がしている。
最良の選択。
言い聞かせるように、何度も。
*
昼時にウルフウッドの店へ食事に行ったら、今は買い出しで本人は不在だということだった。今日のおすすめを注文し、いつもの壁際の席に座る。昼には少し遅い時間だからか店内に客は少なく、閑散としていた。ほどなく運ばれてきたおすすめランチはピラフとスープ。香ばしい匂いが食欲をくすぐる。
早速食べ始めたヴァッシュは、背後にひとの気配を感じてちらっと振り向いた。たった今料理を運んできてくれたこの店の看板娘が思い詰めたような顔で立っている。
来たか。
いつかは話しに来るだろうと思っていた。この店を訪れるたび、彼女の視線が痛いほど突き刺さっていたから。
「隣、ドウゾ?」
空いている席を勧めると「結構よ」と顔を逸らされる。
随分強気な娘のようだが、自分の手を落ち着かなく触っているあたり緊張しているようだった。紅く、形のいい唇をキュッと引き結んでいる。
あーあ。こんなにかわいい子がいるのに、アイツってば。
ウルフウッドに正常な判断ができるなら、彼女の方に惹かれるはずだろう。ということは、ほんの少し残った記憶に引き摺られて自分に拘っている状態なのだ。きっと、会うにはまだ早過ぎた。
「……どうして毎日、ここに来るの」
ぽつり、呟いた言葉はヴァッシュへの投げかけというよりは苦しい胸の内の吐露のように聞こえたが、ヴァッシュはもぐもぐとピラフを咀嚼してから「美味いからかな」と言った。これはどう答えても彼女を煽ることにしかならない。ヴァッシュに食ってかかるための糸口だからだ。
「そんな……! どうして返事もしてないくせに、ニコに気をもたせるようなことするの!」
厨房からこちらを窺っていた店主がそそっと引っ込んだ。優しい父親であり、物分かりのいい雇い主。懸命だ。
「記憶がないからって弄んでるんでしょう⁉︎ あんたみたいな人が、ニコのことを真剣に考えるわけないわ……!」
彼女は怒りに震えていた。ヴァッシュにそんなつもりはなくとも、そう糾弾されるのは仕方のないことだと思う。
今まで彼女は、記憶のないウルフウッドに親身になって寄り添ってきたのだ。それなのに突然、よりにもよって人間台風にプロポーズしたなどと聞かされて──受け入れろというのが無理な話。しかもそこに、彼を愛する気持ちがあるならば余計に。
「ごめん。……約束の期間が終わったら、すぐに街を出ていくから」
彼女はカッと目を見開き、テーブルの上のピッチャーを掴んだ。そのままバシャ! と勢いよく水をぶっかけてくる。
しん、と静まった店内に興奮した彼女の息遣いだけが聞こえた。髪の先や顎から水が滴り落ちる。
「出ていくつもりなら、今すぐ出てってよ! アンタがいるだけでこの街は迷惑なの!」
怒りに頬を染め、彼女の激昂はおさまらずさらにエスカレートしそうな気配がした。カチャリ、スプーンを置いて黙って席を立つ。料理を残すのは申し訳ないけれど、このまま食べ続けられるほど厚かましくもない。
「あ、お代を…」
財布を探そうとポケットに手を突っ込んだら、そんな所作も逆鱗に触れてしまったらしく今度は手に持っていたピッチャーを投げつけられた。跳ね返って床をカランカランと転がっていく。怒りのゲージは上昇していくばかりで、鬼気迫る顔をした彼女はテーブルの上にあったものを見境なく掴んだ。
「早く出て行って! 二度と顔出さないで、ニコに近づかないでよ! アンタなんか、アンタなんか──」
「アッ、ちょ、待っ、痛ァ〜〜」
手当たり次第ヴァッシュに投げつけながら詰る声に涙が混じる。カトラリーや調味料の瓶、その他いろんなものの攻撃をなるべく受けながらヴァッシュは扉の方によたよたと近づいていった。このまま逃げて、街を出る理由にしてもいいかもな──そんな計算をしながら扉を開ける。
──と。
「……何しとんねん」
なんて間の悪い奴だろう。買い出しから帰ってきたウルフウッドがすぐそこに立っていた。ヴァッシュと店内の惨状に目を見開く。
あちゃぁ……。
「ニコ……!」
察しのいい彼にはどんな状況かは容易く把握できたのだろう。ウルフウッドは黙って目を細めるとヴァッシュの腕を引き寄せ、抱えていた荷物を近くのテーブルに置いた。
青ざめた彼女はエプロンをギュッと握りしめて「わたし、わたしちがうの、こんな……っ」と消え入りそうな声で繰り返した。
「おっちゃん、ちょっと抜けてもええか? すぐ戻るし、掃除はワイがするよって」
ウルフウッドが奥に声を掛けると、ひらひらと答える手が見えた。次に立ちすくんでいる彼女に視線を移す。
「マリー、すまん。あとでちゃんと話すから」
それだけ言うと、ヴァッシュの腕を引いて店の外に出る。背後から啜り泣く声が追ってきても、ウルフウッドは振り返りはしなかった。
連れていかれたのは店の近くにある彼のアパートで、部屋に入るまでウルフウッドは何も喋らなかった。タオルを一枚渡され、シャワーを使えとぶっきらぼうに言う。
そこそこの広さがある部屋だったが生活に必要最低限のものしか置いていなくて、いつもその身ひとつで旅をしていた彼らしいとヴァッシュは思った。
水で濡れただけでなく、ソースやスパイスの粉が振りかかったコートを脱ぐ。頭にも散々被ってしまったので、シャワーをありがたく使わせてもらった。
コートやインナーは洗わないとダメそうだった。ついでに洗ってしまったあとで、着替えがないことに気づく。迷ったけれど、どうしようもないのでタオルを引っ掛けて浴室から出た。
「ニコラス、服洗っちゃったんだけど」
「おー、わいの着とけ……」
か
彼のシャツの替えを用意してくれていたらしい。服を差し出した、その顔が固まって数秒、ウルフウッドの表情が固まる。
彼の視線はヴァッシュの身体に走る無数の傷痕やボルト、埋め込まれた金属や左腕の義手に注がれていた。忘れているなら驚くだろうとは思っていたが、予想よりも衝撃が大きいのかもしれない。
「それ……」
「うん? なに、そんな顔しちゃって。僕は指名手配犯だよ?」
苦笑しながらタオルを取り払い、かわりに彼のシャツを羽織る。そして──ウルフウッドの変化にヴァッシュは瞠目した。彼は自分の顔をてのひらで覆い、震えながらその場に蹲ったのだ。
「……ぁっ、……っ」
「え? おい、どうした?」
小さく呻く顔は苦しげに歪み、額には大粒の汗が見える。ヴァッシュは慌てて駆け寄り、まるくなった背中を撫でた。
「アタマ……、痛…ッ、……っ、」
何かの発作のように息を迫り上げ唸り続けるウルフウッドを見ていることだけしかできず、ヴァッシュはじわじわと湧いてくる不安に酷く動揺した。
身体は回復したとはいえ、以前彼は常人では耐えられないはずのダメージを受けていたのだ。何らかの不具合が出てもおかしくはない。
──どうしたら、
焦る気持ちを必死で押し留めるヴァッシュの頬に、そのとき。
ふわりと、一片の羽が出現した。
まるでそれ自体に意思でもあるかのようにふわふわと空中を泳ぎ、蹲るウルフウッドのもとへ着地した。あ、とゔが声を上げると同時にぴたりと頬に張りつく。
「……羽?」
ウルフウッドに触れた途端、発光し始めたそれはぼんやりとやわらかな光で彼を包んだ。しかし本当にひとときの間。幻かと思えるほど一瞬で、羽ごとウルフウッドに吸い込まれるように消えていった。
まずい。
これは──とてもまずい。
深い色をした二つの睛がしっかりこちらを凝視していた。
「……オドレ、やっぱり……一緒に……、ああもう、何が何やら」
一度に記憶が戻って処理が追いついていないのかもしれない。見たところ痛みは治っているようだ。よかった。
「ヴァッシュ、説明せぇや」
「……説明も何も、きみが覚えていることだけが事実さ」
ひと息ついて、彼のそばを離れる。
一週間は長過ぎたかもしれない。彼の姿が見られるのが嬉しくて、つい欲張ってしまった報いだ。
「思い出せないものは、思い出さない方がいいってことなんだ。過去に囚われる必要はない──きみは、新しい人生を手に入れたんだから」
「待て……っ」
立ち上がったウルフウッドはふらつきながら、ヴァッシュに向かって手を伸ばした。
彼の手は、自分よりも大きくて厚い。
あんなに大きな重火器を取り扱っていたのだ。その手に掴まれて乱暴に引きずられるのも、時折り頭を小突かれるのも、大事なものに触れるように扱われるのも、全部好きだった。
胸の中で聞き分けのない心が泣く。
本当は一緒にいたいと、彼が生きていると聞いたときから、ずっと泣いていた。手に負えないくらいに。
「きみがこの世界に生きているだけで、……僕は嬉しい」
一瞬だけ。
肩を引き寄せて、その唇に触れるだけのキスをした。
「服、あとで取りに来る。今晩中にはこの街を出るよ」
返事は聞かずに彼の家を後にした。
それ以上は、堪えられる自信がなかった。
*
「ふ〜〜〜〜〜〜っ」
宿を引き払い、荷物を担いで街中に出たヴァッシュは旅に必要な水や食料を補充して通りから外れた広場に座り込んだ。
とりあえず近隣の街で砂蒸気が来るのを待とう──地図を取り出して行き先を決める。特に行きたい場所はないけれど、この街からは遠く離れた場所に行くのがいい。ウルフウッドに追われないようにというよりは、自分のためだ。いつまでも感傷に浸っているのはあまりいいことじゃないだろう。
あとはウルフウッドの仕事中にコートを取りに行けばいい。このシャツは自分のサイズよりも大きめで、着ていると否応なく思い出すからなるべく早めに脱ぎたいのだ。どうにも落ち着かない。
夕刻を過ぎ、太陽が傾いてきたところでそろそろ行くかと立ち上がった。そのときだ。
低い太陽の光を受けて、いくつもの長い影が近づいてきた。逆光に手を翳すと、見たことのある顔がずらりと並んでいるのが見える。
「よォ人間台風ちゃん。そうしてっとオマエ、優男ぶりが増すなァ」
「トレードマークのコートはどうしたよ。もう隠れたって遅いんだぜ」
「え、いや洗濯してて……」
ここ最近よく会う面々だ。ナントカファミリーとどこかの兄弟のタッグ。
「こないだの男はどうした? 仲間なんだろう」
「へ? いや〜〜〜〜、通りすがりの方だったのでよく存じ上げません」
頭を掻きながら答えると、「ふざっけんな‼︎」と怒られた。ふざけました、ごめんなさい──と謝る暇もなく、ガガガッと足もとに連弾を撃ち込んできた。気の短さに辟易する。
「もう、こっちは今感傷に耐えてるってのに」
ヴァッシュが荷物を抱えて駆け出そうとした、その足を聞き覚えのあるノイズ音が止める。
え、もしかして……
立ちはだかるならず者の向こう側、飽きるほど見た放送車と腕章をつけた数人の人影。
『さあ、今日もスリリングな展開を詳しくお届けします我らNLBC! おおっとこれは、ヴァッシュ・ザ・スタンピード本人なんでしょうか、いつもの赤いコートが見当たりません!』
「なんでぇ……?」
「テメェがやられっとこ楽しみにしてる連中がいっぱいいるもんでな。呼んでおいたのさ」
どうせ裏で賭けのネタにでもされているに違いないが、しかしまさかこんなところでやらなくたって。
さきほど店で投げつけられた言葉が蘇ってくる。あの娘にとっては、自分など疫病神そのものでしかないだろう。これ以上は迷惑をかけられない。
「仕方ないなぁ……」
『ヴァッシュが銃を手に取りました! いつも最初から逃げるのに、今日は気合いが違いますね!』
『服装といい、何かあったんですかねぇ』
『イメチェンでしょうか? もしかしてフラれたとか』
『ああ〜それは有り得そうです! 今日は荒れるかもしれませんね』
「うるさいんだけど!!??」
じくじく傷を抉られて痛いったらこの上ない。自分の本当の敵彼らなんじゃないかと最近はよく思う。
「おい、お喋りはもう終わりだ。こっちも本気で行くからな……覚悟しとけ」
立ち並んだ全員が銃を構える。見たところ前回よりも人数を揃えてきたらしい。
「──今日は遊んであげられないんだ。楽しくないかもしれないけど怒らないでよ」
ヴァッシュが地面を蹴って駆け出し、それを合図にするかのように銃口が一斉に火を吹いた。
構え、照準定めて──大概の相手は、ヴァッシュの腕を知っているからそれなりの対策をして挑んでくる。しかし、それらはいつも功を奏さない。精密にコントロールされているヴァッシュの銃さばきは、彼らの予測を上回るからだ。
夕方の営業が始まるまでになんとか床を磨き上げ、散乱したものを片付けたウルフウッドはモップに寄りかかってひと息吐いた。
さっきからなぜか煙草が吸いたくてたまらない。今まではまったくそんな気が起きなかったというのに、ヴァッシュの羽から記憶がなだれ込むように押し寄せてきて、あれからずっとだ。
まだ頭の中は整理がついていないが、だいたいのことは思い出せるようになってきた。好きな煙草の銘柄、抱えていた十字架、肩を並べて歩いた赤い色。アイツは今晩中に発つと言っていた。引き留めたいのに、最後の記憶をどうしても思い出せなくて動くことができない。
何か、大事なことが──あの男の深いところに突き刺さっている何かがあるはず。そこを探ろうとするとどうにも頭がズキッと痛んで先に進めないのだ。自分にとってもきっと、重大な記憶なのだろう。開けてはならぬようにも思えるし、だからこそ開けなければならない気もする。
仕込みが終わったらしい店主がテレヴィジョンを起動した。疲れた顔をしているのは部屋に引きこもってしまった娘のことが心配なのだろうが、ウルフウッドには文句のひとつも零さない善人である。
店に戻ってすぐ、マリーと話した。まだ自分のしたことに動転していたようだったが、気にしなくていいと言うと子供のように泣き出した。
それでも、ウルフウッドは嘘がつけなかった。自分の大切なものはわかっている。記憶が戻ったことで、それが色濃く確かなものになっただけだ。機嫌を取るための、耳よい言葉はひとつも言ってやれない。ただ、世話になったことの礼を口にする以外は。
テレヴィジョンの画面に映し出されたのはお馴染みのNLBCだった。ぼんやり見ていた店主が俄かに慌て出し、画面に張り付くようにしてわなわなと震える。
『あー! さすがヴァッシュ・ザ・スタンピード! あの猛撃をひとつも食らってません!!』
あん?
聞こえてきた名前にウルフウッドも思わず振り向いた。
さっき別れたばっかりやぞ……!
まさか、と呆れていたところに店主が「こ、これ、ここだ! 向こうの外れの方にある広場……」と顔色を失くしていた。店主の太い体を避けて画面を見れば、見たことのある顔が揃っていた。報復に来たのか。
大所帯の敵に対して、黒髪の男はただ一人。いつもの赤いコートでなく、自分の貸したシャツを着て。
「……おっちゃん、急でほんま悪いんやけど」
この街で暮らしていた数年は、おそらく自分の人生で一番穏やかだったと思う。この暮らしが続くのだと思っていた。あの赤に再び出逢うまでは。
「わかってるさ、ニコラス。寂しいけどな」
店主は鼻の下をぐすぐすとかいて、「行ってやれ。惚れたんなら最後まで付き合ってやれよ」とウルフウッドの肩を叩いた。
「こんなもんじゃ、餞別にならねぇが」
エプロンのポケットから何やら箱を取り出し、丸くふんわりとした手でウルフウッドに押しつける。
煙草だ。
「これしかなくてよ」
「……いや。好きなやつや。おおきに、おっちゃん」
しんみりとした空気が漂った。そのときである。
バン! とすごい勢いで入り口のドアが開き、大きな体の男が現れた。特徴的な帽子と、顔に大きな刺青──
「リヴィオ」
「ウルフウッドさん! よかった…って、思い出したんですか!?」
「ぼちぼち」
まだ完全やないけどな、と言えば目をうるうると潤ませて近づいてきた。怖い。
「本当によかった……! あの人は頑なだし、ど、どうなることかと……っ、」
「待て待て、すまん今はそんな話しとる場合やないんや。あとでな」
そうでした、と泣き止んでリヴィオは背中に担いでいたものをドンと下ろす。その重量感、敬虔なる形状。──また手にすることになるとは。
「間に合ってよかった。行ってきてください」
ニッと笑った弟分は、数年の間に随分成長したらしい。
何があったのか、一晩では聞き終えられないほど積もる話があるだろう。時間はこれから、いくらでもある。大事なものをしっかり掴んだあとなら。
*
避け損なった弾丸が肩を僅かに掠める。ビッと破けたシャツに気を取られ、背後から伸びてきた腕に首を締められた。太い腕に軽々と持ち上げられる感覚、この間の巨漢に違いない。
「……ッ」
「へっ、銃もいいけどよ、俺ァやっぱり自分の手で息の根を止めるのが好きでな」
ぎらっと光るナイフをわざとヴァッシュの顔の前に翳して見せつけてくる。ゴテゴテと装飾のついた、悪趣味な得物。
「特注なんだよ。立派だろ? テメェ、銃の腕前はイカれてやがるが足癖も悪ぃな。散々好き勝手しやがって、さすがスタンピード様だぜ。面倒だからその脚、先にぶった斬っておくか」
『ヴァッシュ・ザ・スタンピード捕まりましたピィィィンチ!! すでにガミエラ陣営は人間台風にやられて半数以上戦闘不能ですが、攻略しがたい巨漢グロテスク・バイロンが残っています! さあどう切り抜けるのか──』
「退けバイロン! おまえがいると撃てない!」
長長髪の男がヒステリックに叫ぶ。即席の連合軍は意思疎通がうまくいってないらしく、戦闘中も自分たちの連携ミスで隙を作ることが多かった。喧嘩は四六時中のようだ。
「まぁ待てよ。こないだは惜しかった……せっかくこのキレーなツラの皮を剥いてやれると思ったのによォ。な〜〜〜〜、ヴァッシュおまえ、金髪だっただろう昔は。何でこんな真っ黒になっちまったんだ?」
この巨体、以前も思ったがとても気持ち悪い。ゾワっとするのを我慢しながら、抜け出せる隙はないかと探る。──前回は、ウルフウッドの乱入で助かったのだけれど、と思い出してふるふると頭を振った。
ウルフウッドと共闘することが身体に馴染み過ぎて、一人になったときあまりの感覚の違いに戸惑ったことが胸を過ぎる。助けられたり、補助されたりがあたりまえになることの怖さ。
いつだって一人でやってきたのに、あんな短い旅路で身に染み込んでしまうなんて。
「──なぁ、」
声音に誘うような色を滲ませ、もぞもぞと窮屈な腕の中で首を動かして己を掴む男を見上げる。この外見にやたらとご執心であるならば、少しは気が惹けるだろう。
「そんなに知りたいならきみだけに教えてあげるよ。僕の秘密」
「秘密……?」
白目の多い瞳がぎょろっと動く。やはり食いつきがいい。
「そう。……でも、聞こえたら恥ずかしいんだ。耳貸してよ」
もじっと身を捩って顔を赤らめてみた。鼻息が荒くなったので効果はあったようである。
「こ、こうか」
「……ん、もうちょっと」
「焦らすなよ、早く教えろ」
短気な男は首を思い切り傾げてヴァッシュに近づけてきた。ちょうどいい角度だ。もじもじしていたおかげで自由になった首を振りかぶり、ガンッと勢いよく頭突きを食らわせる。
「ぐあッ‼︎ 〜〜〜〜〜〜ッ、テメ… ッ」
一瞬緩んだ腕の隙間からすり抜け、着地したところでクルッと回転して銃を構える。続けて四発、男の膝を狙って撃ち込んだ。先日ウルフウッドにやられたところだ。
巨体が唸りながら倒れ、ゴロゴロと転がりながら痛い、痛いと喚き散らした。「バカかテメーは!? 何やってんだ!!」と長髪の男が叫ぶ。ごもっとも。
「フン、これで心置きなく穴だらけにしてやれるってもんだ。スタンピード……嬲り殺してやる」
ほぼ円形に囲まれ、すべての銃口が中心にいるヴァッシュに向く。こうなったらいくつか食らうのはもう仕方がない。一人で切り抜けるとはこういうことだ。
誰が一番先に引き鉄を引くか──感覚を研ぎ澄まして気配を探る。
じりっと背後で動く微かな振動。
と、同時に空気を引き裂いて向かってくる何かの音が聞こえ、ヴァッシュはひとつ静かな呼吸をした。
──来る。
『な、何だァ〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ⁉︎』
ひゅう、と突如飛来したミサイルがヴァッシュを取り囲む男たちのもとで爆発し、間髪入れずに砲弾が撃ち込まれる。あたりは一瞬で粉塵に取り巻かれ視界が効かなくなった。
砲弾の嵐が来る前に背後の男の頭を足場にして跳躍し被弾を免れたヴァッシュは、飛び移った岩石の上から呆れたようにその惨状を眺めた。
「……荒っぽいなぁ、相変わらず」
驚異的な攻撃力を誇る兵器を抱えた男がゆっくりと近づいてくる。口もとに煙草を咥えているのを見るのは、そういえば再会して初めてかもしれない。ニコラスからは、煙草の匂いがしなかったのだ。
ウルフウッドは地面に伸びた男たちを避けながら、飄々とヴァッシュのいるところまで登ってきた。
「オドレがちんたらしとるからや」
「してないよ! ちゃんと頑張ったんだから。きみが規格外なだけでしょ」
『こ、これは〜〜〜〜!? スタンピードの仲間でしょうか? ガミエラ・ブラッドフォード連合一網打尽だ〜〜〜〜!!!!』
粉塵が落ち着いて、勝敗が明らかになると俄かにリポーターが騒ぎ始めた。ヴァッシュが恐る恐る確認すると、白目を剥いている者もいるが死んではいないらしい。「心配せんでも加減したで」とヴァッシュの目の前まで来た男が言い訳をするけれども、いまいち不安がある。
「きみ、どうしてそれ」
「リヴィオが持ってきてん。……おーお、傷こさえよって。コートも着てないのにこんな大人数相手する奴があるか」
ぐ、と腕を取られて肩に引き裂かれた跡があるのを目敏く見つけられる。上からバサッと被せられたのは、彼の家に置いてきたコート。
「ごめん、きみのシャツ」
「そんなんどうでもえーわ」
『な……っ、何か見つめ合って二人の世界なんですけど、本当に何者なんでしょうか?』
戦闘は終わったと言うのに納得できないのか、まだカメラが回っているようである。
しまった、ウルフウッドが仲間だと思われる──と、距離を取ろうとしたのに「おっと」と逆に腰を抱かれて逃げ遅れた。近い。近過ぎる。
「なぁ、何者やて聞かれてんで。何がええ?」
「何が……って、ちょっときみ、離れなさいよ。ノーマンズランド中に顔が知れ渡るぞ!」
「もう遅いやろ」
それはそうだけど、とジタバタするヴァッシュを難なく取り押さえ、にやりとウルフウッドは笑って煙草を指の間に挟んだ。
「なぁ、何がええかな。仲間? 友達?」
「あ、こらっ、離せ」
「友達にはあんなキス、したらアカンのやで。こっちはせっかく我慢してんのによぉやってくれるわ」
うわ。
顔を包み込んだ手に顎を上げさせられ、互いの鼻先が触れ合いそうなほどに近づいた。
『…………イチャイチャしてますねぇ〜〜〜〜』
『今にもチュウしそうな雰囲気ですね……』
リポーターはひそひそと喋っているつもりでも、スピーカーを通されたら意味はない。そしてこれも中継で流れているというのだろうか。恐ろしい。
「う、ウルフウッド……っ」
「オドレ、まだ答えてへんやろ。別に記憶戻っても気持ちに変わりはないで。むしろ断られてもしつこく追いかける気満々や」
「……それ、僕の返答に意味ある?」
ヴァッシュは呆れた。あんなに身を切られる思いで告げたのに、どうしてそうなってしまったのか。
「あるやろ。イエス一択やけどな」
「〜〜〜〜っ、きみねえ……!」
「そやかて、こんなにくっついとるとこ映されてもう弁解できひんやろ。わいもパニッシャー撃ってもうたし。あと何の心配があんねん」
「だ、だって……っ、もうきみには、帰る場所が……」
「もうないで。退職したからな」
「え!?」
「惚れた相手には最後まで付き合え、とさ。名言やろ」
「…………」
ヴァッシュは言葉に詰まった。
どうしよう。
舞い上がるな、と思うのに隠していた気持ちがどんどん大きくなってくる。
ダメだ、離れなきゃ、
離れて、
忘れて──
「…………すまんかった。全部思い出したんや。もう二度と忘れんから、一緒におって。一緒に生きていきたいんや、トンガリ」
──『トンガリ』
そう、呼ばれたかった。
ずっとその声で、もう一度呼んでほしかった。
なんだよ。
おまえが謝らなきゃいけないことなんて、ひとつもないのに。
言葉はひとつも伝えられないのに、ぽろぽろと目を濡らす雫だけがこぼれ落ちる。
「……そんな顔しとったら、無理矢理攫ってまうで」
「──うん」
吸い寄せられるみたいに、ヴァッシュは少しだけ伸び上がって薄い唇にキスをした。
別れ際にしたキスはとても悲しかったのに。
今は──何も考えられない。
『ア、ア……!!』
『や、やった〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!』
何を言っているのか聞き取るのが難しい悲鳴が上がる。
でも一度くちびるを離したら、また追われて食いつかれるのがたまらなく愛しくて、そっと背中に腕を回した。
本当だ。
知らなかった。キスひとつで、こんなにも我慢できなくなるんだって。
*
衝撃のNLBC中継のあと、『ヴァッシュ・ザ・スタンピード結婚! 相手は死の淵から甦った不死身の男』というニュースが世間を飛び交った。ウルフウッドの顔は瞬く間に知れ渡り、噂によるとファンまでいるという。なぜかお祝いムードで報道するNLBCの立ち位置が最近よくわからない。
「メリルたちがいなくなってから本当ワケわかんなくなったよなぁ……」
ラジオから流れる自分たちについてのニュースを聞き流しつつ、サイドカーにちょこんと座ったヴァッシュは頭を抱えた。メリルとミリィは表には出てこなくなったが、それなりの役職に就いていろいろと忙しくしているらしい。結婚報道についてはきちんと詳細を聞きに行くとシップを通じて連絡があった。ついでにルイーダにも一度二人で一緒に帰ってきなさいと言われて頭を悩ませている。
「ま、手間が省けてええやん」
運転中の男は自分が大きく取り上げられているというのにどこ吹く風だ。
「ハネムーン中やて言うとんのに取材に来るのは鬱陶しいけどな」
「ああ……」
この前滞在した街はNLBCに抜かれたおかげで勝負を挑んでくる輩がわいわい押し寄せてきて大変だった。とりあえず放送局を撒かなければ新婚旅行どころではないのだが、自分に加えてウルフウッドまで顔が売れているからどこに行っても騒ぎになってしまうのだ。
「シップに寄るのもええな。次の街着いたら考えよか」
「うん……」
はあ、とひと息つくと隣から視線を感じた。
「なに」
「いや。ワイな、トンガリの金髪きれいで好きやってん、ずっと前から。でも今のそれもええな。お揃いや」
──ずっと前から、ってさ。
ウルフウッドは最近こういう、不意打ちをよくやる。そのたびに体まるごと甘く溶かされる気がして、ヴァッシュはずいぶん心許ない。そんな雰囲気に、まだ慣れていないのだ。
「……前を見て運転してクダサイ」
「前見ても何ァんもないねんもん。そりゃ別嬪の方見るやろ」
「……っ、いいから前を見ろ! こっち向くの禁止!」
えぇ、殺生なと縋ってくる声を無視してサングラスを掛ける。顔が熱いのは日の光のせい。それだけだから。
その点、隣で座っているだけという身分はとても助かる。いくらでも横顔を盗み見ることが可能だ。
「…………誰かさんは、ちらちら見てくんのになぁ」
「……!!」
果てのない砂漠の上、二人分の声が風に混じる。
行き先はどこだっていい。見たい光景はいつも、すぐそばにあるから。
そしてまた、最後の一瞬までそばにいる。きみの。
